キリスト教での愛

 産経新聞、曽野綾子の「小さな親切大きなお世話」にキリスト教の愛について語っている。

 「その人のために死ぬるか」ということは、愛の本質を見極める一つの踏み絵だという。そして、愛は「好きである」という素朴な感情ほとんど無関係だという。キリスト教における愛というものは、むしろ自分の感情とは無関係に、人間としてなすべき態度を示すことだ、とされている。つまりその人を好きであろうがなかろうが、その人のためになることを理性ですることだと言う。

 キリスト教では「理性を伴う悲痛な愛」だけが唯一の本物の愛として認識される。親子、夫婦の間で自然に起こる感覚的好意や敬意や慕わしさが消えた段階から発生する義務的いたわや優しさや哀しさこそが、本当の愛だと考える。

 敵を愛し、友のために命を棄てることを自分に命じる理性を必要とする愛こそか、キリスト教での愛。

 私は、三浦綾子の塩狩峠を思いだした。理性に基づく愛をもつことは、祈りと生活の厳しさが求められると思う。人は、弱いものであるから、そこに祈りと規律が定められたのかもも知れない。曽野先生のこの話で、厳しい一つの愛を知った。

 そして先生は、「神」は、今私たちが相対峙している他人の中にいる言う。この言葉も重い。