彼女との新居に祖父が遊びに来る。
5月に実家から引越しをして早2ヶ月が経過した。
あっという間。
忙し中でもどうにか部屋を少しずつ片付け、それなりにきれいになった。
そこで祖父を招待しようということになり17日の夜、祖父が来た。
祖父は今年で87歳になる。
「法事に山梨の下部に行く--慈観寺--」で少しだけ書いたが、かなり元気。
パソコンを独学で覚え、インターネットで調べ物をし、マウスを軽やかに使いこなす。
よく話し、よく食べ、よく飲む。事業をしていたことがあるので、その営業のため
日本全国津々浦々に行き、その場所の細かいところまで、あそこには何があったのだの、誰それがいただのよく覚えている。
一時期、大もうけをし、飲み歩いていた時は、現在ポスト小泉と言われるような人(まだそのころは駆け出しの弁護士だったそうだ)とも一緒に飲み歩いていろいろ語り合ったと。
さすがに今は年齢も年齢なので第一線からは退いてはいるものの、向上心はいまだに持ち合わせており、はつらつとしている。
ちなみに、祖父は9人兄妹の3人目で、長男はお亡くなりになったが他の兄妹はみなさん祖父と同じくらい元気。
私のブログを見ながら話をしたときに戦争中の話になった。当時、祖父は今の渋谷区付近で、高射砲を撃っていたそうだ。祖父の扱う高射砲は古く、B29が凄すぎたのだろう。B29の飛行する高度まで届かず、ほとんど当たらなかった。B25には当たって墜落したと言っていた。
祖父に何故、内地で戦っていたのかを質問した。
祖父は戦争中、友人に「この戦争は負ける」と言われたらしい。
この友人のお父様が大手海運会社の偉い方でアメリカに渡った時に日本との物量の差を痛感し、勝てないと思ったそうだ。
その話を聞いた祖父は、絶対に生き残ると決めた。
なんにしても運が良く、外地に行かずに済み、怪我もせず終戦を迎えることができた。
この友人の方もしっかり生き残ったそうだ。
陸軍に入る前は海軍関係の研究所で金属の研究をしていたこともあり、そこで祖母に出会ったなどとなれそめ話も聞いた。
当時、祖母は看護婦で研究所で働く人達の健康管理をしており週一で検査をしていた。研究所付きの看護婦なので職場では毎日顔を合わせていた。
偶然にも両人とも山梨出身ということで気が合った。
戦後、祖父と祖母が暮らしたのは中野(中野5丁目)にある旧陸軍関係の寮に住んだ。
その寮は数年前に取り壊され今は駐車場。
今、私と彼女が一緒に住み始めた場所は、その寮の跡地の目の前。
私の父はそこで育った。
不思議な縁を感じた。
帰り、彼女と早稲田通りまで祖父を見送る。実家まで送ろうとすると、祖父は一人で帰ると。
手を振って、タッタッタと背筋を伸ばして軽快な足取りで歩く姿は、とても90近い人とは思えない姿だった。
2017年1月23日 追記
祖父はまだ元気です。今年で98歳
相変わらずパソコンいじってます。ネット回線が遅いとぼやいている・・・。
じいちゃんってほんと元気だよね~☆
素敵よね。
バナナかぶった人とは大違いの写真だわ(°ワ°)