「病む日には病む日の大切な人生」交通事故にあって感じた事

今年の3月後半、私は都内の交差点で交通事故に遭い、首を痛めた。
自転車で青信号を渡っていると、左折車が一時停車せずに走ってきてそのまま衝突。
相手のスピードは出てなかったので、転倒して顎を打ちつけ、擦り傷を負った。
倒れた瞬間思ったのは、「いたい」

ゆっくりと倒れていったのは記憶している。

軽い脳しんとうを起こし、警察官が呼んでくれた救急車に乗って病院へ。
検査の結果、骨や脳には異常はなく対したことは無かった。

ところが、5月に入ってから首から肩にかけてのこりが酷くなり頭痛までするまでひどくなってしまった。なかなか仕事にも集中できず、夜もきちんと寝られないこともある。
そんな5月下旬のある日、ベットで寝転びながら「日に日にひどくなる。脳や骨に異常があるんだろうか。突然死ぬことはないよな・・・」などと考えながら天井を見上げながらぼぉ~っとしてた。そのとき、ふと何気なく横を向いた瞬間
「雨の日は雨の日の 病む日には病む日の 老の日には老の日の かけがえのない
大切な人生がある」という言葉が目に飛び込んだ。
これは、教育者東井義雄氏(日本のペスタロッチと呼ばれた)の言葉だ。
「病む日には病む日の・・・」。
雨が降っても降らなくても、病んでも病まなくて、若くても老いても、その時をありのまま生きに、その生きているということの一瞬に感謝をする。
その一文を見せられたことに不思議な縁を感じた。

私が事故にあった、その10日後、そこから数十メートルと離れてない交差点で、小学生の男の子が亡くなる事故があり、またさらにちょうど一ヶ月後、今度は婚約者の親戚の方が尼崎の衝突事故で亡くなると、二つの衝撃的な出来事があった。

この二つの事件を通じて、私は普段意識している以上に生きていることが不思議であり奇跡なことだと思った。もし、私の事故で相手がもう少しスピードを出していれば、打ち所が悪く、死んでいたかも知れない。
”生きていることがありがたい”とは先人達の言葉や、祖父母から聞くことがある。自分が自分で生きていると思っていても、ものすごい数の人やモノに生かされていることを実感したときに、その言葉が出てくるのかも知れない。そう思った。

「有難い」、この言葉は仏教の教典から出たと物の本に書いてあった。
その出所というのは仏教の「法華経」の中に安楽行品というのがあり、その最初にこう書かれている。

その時に文殊師利法王子菩薩摩訶薩、佛にもうしてもうさく、世尊、是の諸の菩薩は甚だこれ有り難し。

「有ることが難い」、私たちを含め「存在」するというこがいかに難いものであるか。
そこから転じて感謝の意味になったそうである。

「病む日には病む日の・・・」。この世での自分の有ることがいかに難しいことであるか、実感した一文だった。それに逢えたことに感謝したい。
その後再検査をし、脳と骨には異常は無かった。が、捻ったことで筋肉が緊張し続け首の骨がゆがんでいるそうだ。今は、薬を飲みながらリハビリをして治している。


「病む日には病む日の大切な人生」交通事故にあって感じた事” に対して2件のコメントがあります。

  1. ふくちゃん より:

    大丈夫ですか?
    気をつけてくださいね。
    でも、事故っていつおこるかマジわかんないから怖いよね・・・
    お大事に!!!

  2. 妹よ より:

    雨の日は雨の日の・・・いいね☆
    猛烈に感動した。
    早く首なおるといいですね。
    さてさて、父の日ですが、食事はお父さん忙しいのでまた落ち着いたらってことにして、今日はお店がしまるの早くてゆっくり見れなかったので明日新宿よって探してこようと思ってるよ!
    昇にいちゃんのも一緒にさがしてくるねっ。
    どうやらdocomoもボーダフォンに写メおくれることこないだ知ったので(いまさら!?)なにかあったら送るねっ(^ワ^)/
    おやすみ☆ミ
    ・・・ところでブーメランコメントってへんな名前だけど何?自分に戻ってくるって事?
    わけわかめ(´ω`)

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